2012年に帰化申請が承認されるまで、ペルー人としてピッチに立っていた。フットサルとの出会いは遅く、21歳のとき。民間施設の“遊びのフットサル”から、日本代表まで上り詰めた。原点には、いつでもボールがあった。自宅前のストリートサッカーの記憶が、経験が、自身を形成してきた。日々、己を磨き続ける男、森岡薫を語る上で、決して無視することのできない、ルーツを紐解く──。
なお本記事は、Football Culture Magazin ROOTS Vol.08(2016年3月発行)に掲載された内容をお届けする。
Text and Photo by Yoshinobu HONDA
文=本田好伸 Fリーグを9連覇中の最強クラブ・名古屋オーシャンズに所属する国内最高のプレーヤー。2007シーズンにリーグの初代MVPに輝き、その後も3回、同賞を受賞、2011年から4年連続得点王、過去5回のベスト5選出など、国内で獲れるタイトルや個人賞を総なめしてきた。生粋のゴールハンターとしてピッチに君臨し続け、円熟味を増すそのプレーはいまだかげりを見せない。
森岡薫、36歳。彼は24年ほど前まで、遠く南米の地、ペルーで幼少期を過ごしていた──。
「おもちゃなんか、持ったことはなかった」。小さい頃からサッカーばかりしていた。他に楽しい遊びもなく、家の前の道路に線を引き、石を2つ置いてその間をゴールに見立てた。「ルールは、ひざ下のシュートしかゴールが認められないことと、壁に当たったりしても続けるということだけ。時間も決まっていなくて、試合終了はどこかの家にボールが入ったとき」。大人も子どもも関係なく、6対6もしくは7対7で試合を行い、誰かが途中で抜けても、また別のメンバーが入ってきた。車が通れば一時中断するが、ときには車の下にボールが入り込んでしまうこともあった。「ある家のおばさんが鬼のような人で、そこの屋上にボールが入ると、その人がハサミでボールを突き刺して使えなくしてしまう。家の前には、ボールが入り込まないように鉄線が張ってあり、それが体に刺さったこともあった」。そんな“危険な遊び”に参加することを、母親は嫌がっていたという。「ペルーは危ないから、外に出るにも毎回、親の許可がいる。ダメと言われれば、家の中で過ごさないといけない」。やんちゃ盛りの森岡は、母親が出掛ける隙を狙って、外出することにしていた。
あるとき、ペルー国内の情勢不安が原因でストライキが起きた。公務員もみんな働かず、学校も半年間休校。毎日サッカーに明け暮れた。「母親が買い物に出掛けると外に出て、通りの角の新聞屋と仲が良かったから、見張りをお願いした。帰って来るのが見えたら『ピーッ』って口笛みたいに吹いて知らせてくれて、それを聞いたらダッシュで家に戻って、汗をかいていてバレてしまうから、筋トレをしながら帰りを待っている。そんなやんちゃな感じだった」。
ペルーのストリートサッカーは、自宅前の通りが“ホームグラウンド”となる。横道にも裏通りにもそれぞれ別の“ホーム”があり、ときには“アウェイ”に参戦して、自分たちが使っているボールを懸けて試合をした。その“アウェイ戦”には、ホームの選抜メンバーしか出場できない。「お手本にしたい選手はメッシとかネイマールみたいないわゆるスター選手ではなく、一緒に蹴っている19歳とか20歳の年上の兄ちゃんたち。その人たちが憧れであり、近くにいるのがすごいことだった」。そうやって、身近な人に憧れ、真似をして、スキルが磨かれていった。「パスやシュート、ドリブルを教えてもらったことは一度もない。一つだけ教わったのはキープのやり方。向こうではボールを取られることが一番の屈辱だったから、壁を使ったりして、ボールをキープした。ときにはスライディングもするし、落ちているガラスの破片でケガをすることもあった」。サッカーのテレビ放送や地元のトップチームの試合もあったが、見ることはあまりなかった。「やるほうが良かったから。サッカー選手になりたいわけじゃなかったけど、サッカーで一番うまくなりたいと思っていた。とにかく、ここで一番うまくなりたい、と」。気が付けば、才能が花開いていた。「大会に出て4点決めたらスカウトから契約の話があった。でも母親に相談したら、日本に行くことになったからダメだって」。
12歳の出来事だった。
日本には行きたくなかった。「ちょうど、自分に可能性を感じていた時期だったから。オファーをもらって試合をするとお小遣いをくれるし、年齢を証明するために、出生証明書をいつでも靴下の中に入れて歩いていた。学校も休みだったから毎日蹴っていて、もう楽しくて楽しくて。でも、夜に帰宅すると母親に怒られて、手に負えない子どもだった(笑)」。
それでも選択肢はなく、来日。やってきたのは千葉県市原市だった。「小学校にサッカー部もあったけどレベルが低かった。1対1をしてみろと言われてやったけど股抜きばっかりできて、しまいには先生も抜いてしまった」。その後、成田市に転校すると、サッカー部はなく、中学校でもサッカーをやらずにバスケットボールや野球をしていた。ボールを蹴る機会といえば遊びのキックベースくらい。「市原にいたときは港が近くて、海を眺めながら、『あっちはペルーだよな、友達とまたボールが蹴りたいな』って、思い出すとつらいときもあった」。言葉の壁もあって日本の友達もなかなかできず、ボールを蹴らない日々が続いていた。でも、そういう寂しさも、ボールを蹴らない日常も、時間が解決した。「18歳の頃には、『そういえばサッカーやってたな』くらいの感覚になっていたし、友達と遊ぶのが楽しくて、いつしかそんな思い出も忘れていた。ワールドカップは見ていたけど、やっぱりそこは自分が想像もしないような世界だから、夢は叶うはずもないと思っていたし、そもそも夢を追い掛けてもいなかった」。
転機は21歳のときだった。フットサルと出会い、森岡の人生は変わった。正確には、ただひたすらにボールを蹴り続けていた“あの頃”に戻ることができた。「個人参加型フットサルに行って蹴ったら、『ああ、やばいなこれ』って。みんなうまかったし、俺もこういうことをやってたなって」。フットサルだったことが、当時の状況を考えてもちょうど良かった。「サッカーだったら現実的な年齢ではないし、プロを目指していない。でもフットサルだと、一人の動きですべてが決まるわけじゃないし、難しいスポーツだと感じた反面、すごく懐かしさもあった」。自宅前で蹴っていたストリートサッカーの記憶が蘇った。「フットサルだったから、また常にボールを蹴るようになった」。
そうやってボールを蹴る生活に戻ると、そこからは負けず嫌いな性格が己を突き動かしていく。「チームで一番にならないと気がすまないし、大会では優勝したいと思うし、常に一つずつ目標を立ててやっていった。プロになりたいとか、今のような姿は全く思い描いていなかった」。本格的にチームに所属した神奈川県のブラックショーツでは、1年で関東リーグに参入。「今度は、関東リーグで一番の選手になりたいと思った」と移籍を決め、当時のフットサル界で最前線を走っていたファイルフォックスに加入した。「難波田(治)くんや(稲葉)洸太郎(現フウガドールすみだ)、木暮(賢一郎/現シュライカー大阪監督)なんかもそうだけど、みんなスポンサーを付けていたり、フットサルで少しだけでも生活をしている選手がいた。(相根)澄さんなんかはイタリアにも行っていた選手だし、そういうのを見て、『いつか自分もこういう選手になりたいな』って」。身近な選手に憧れ、目標に向かってまい進した。
次第に芽生えた「プロになりたい」という思いは、06年に結成された大洋薬品/BANFF(現名古屋)で実現する。「2年で関東に帰ろうと思っていたから、名古屋に10年もいる想像はしていなかった。クビを切られていくのは外国人選手だから。でも3冠を達成したり注目を浴びて変わっていった。自分の可能性も感じた」。次に掲げた目標は、「外国人に負けずに自分の居場所を作ること」だった。そのためには、他の外国人選手に「勝つ」ことよりも「真似」することを考えてプレーした。「真似をして超えて行こうと思った。真似をしてさらに練習すればうまくなる。もちろんその人にしかないセンスもあるけど、そこは努力でカバーできる。毎年そうやってきたから、楽なシーズンは一度もなかった」。その後、日本国籍を取得し、日本代表にも呼ばれ、活躍を続け、給料が上がった。「それを維持するにはまたやらないといけない。プレッシャーもどんどん大きくなっていった」。
いつしか周囲から、「日本最高の選手」と呼ばれるようになっていた。「でもそれは、みんなが言っているだけ。自分にはそんな自覚や安心感はない」。だからこそ、一つずつ、目の前の目標をクリアしていった。決してその姿勢がブレることはなかった。「それは試合でも同じ。3-0で負けていても、一気に3-3にはできない。1点取ってから、また1点と続けることで追い付ける。そのプロセスは人生も同じ」。
森岡のそういうスタイルは、「今の自分がないと先の自分はない」という言葉に集約される。例えば、引退後のことを全く考えていないわけではないが、それでも、今の自分が成功を納めないことには、未来へとつながっていかないと考えている。そうやって自分自身の歴史を積み重ね、そして、2016年の分岐点を迎えた──。
森岡は2015シーズンの終了を待たず、名古屋から今シーズン限りでの解雇を言い渡された。1月10日、Fリーグ9連覇を達成した翌日、彼自信、耳を疑うようなフロントの提示だった。「結果がすべて」。そう考えていた森岡は常にクビを切られる覚悟を持って日々を過ごしてきた。それでも、「まだ俺はこのクラブに貢献できる」と、信じて疑わなかった。事実、連続得点王は途切れたものの、得点ランク2位のゴール数、ベスト5、目に見える結果もそうではない結果も残していた。だからこそ、まさに青天の霹靂だった。
クラブの通告を受けてから次のクラブを探す間もなく、日本代表に召集され、9月のワールドカップ出場権を懸けたAFCフットサル選手権に臨んだ。2連覇中のアジア王者として戦ったものの、誰もが予期せぬ結果が待っていた。グループステージでは3連勝で抜けたが、格下・ベトナム代表に準々決勝で敗れ、W杯出場を懸けた5位決定プレーオフでも初戦のキルギスタン戦で惨敗。3大会続いたW杯出場を逃し、森岡自身、2度目のW杯出場は叶わなかった。「そこにまた立ちたいと思って、4年間必死にやってきた」。だからこそショックは計り知れないほど大きく、「正直、試合後は現役引退も考えた」。
大会から5日が経過した2月23日、帰国した森岡は、「今後も日本代表に呼ばれるなら、絶対に行きたい」と語った。そしてインタビューの去り際、こんな言葉を漏らす。「今の代表で、俺の代わりになる選手はいる? いないでしょ」。森岡らしい、自信に裏打ちされた強気なコメントだった。彼の圧倒的な存在感は、日本が敗れても、消え去ることはない。彼は今でも、日本のトッププレーヤーに違いなかった。そしてこの「自信」こそが、森岡が森岡たるゆえんに他ならなかった。
「自分に自信がない」。
森岡は自身のルーツをそう表現する。「俺は自信に満ち溢れた人じゃない。だからこそ人の倍以上やらないと、成功しないと思っている」。2015シーズンは足首の手術に踏み切り、1カ月ほどチームから離脱し、6試合を欠場。そして復帰後の5試合は、全くゴールを奪えなかった。「引退も考えた。それはやっぱり、自分に自信がないから。でもプレーオフでも、コロンビア代表との親善試合でも結果を残して、自信を取り戻せた。それまでの期間は、何倍も練習した。それをやらなかったら終わっていたと思う」。
小さい頃からそうやって一つずつ、目の前のことに向き合い、自信のない自分との戦いに打ち勝ち、結果を残し続けてきた。周囲は森岡に対して、「次のワールドカップの目標は?」、「今シーズンは何点が目標?」と問う。そうした質問に答え、期待に応えることは、優れた選手に課せられた使命でもある。でも心中は、そんな先のことなど答えようがないというジレンマもある。「いつだって目の前の試合のことしか考えていない」。今を生きる森岡にとって、それがすべてだった。自信ががないからこそ頑張る。「自信はないけど、成功すれば、誰よりも自信を持てる」。そうやって頂点に立ち続けてきた。
数カ月後、どこでプレーしているのか、まだ誰も知らない。自分自身でも、行き先を決めているわけではない。でも一つだけ確かなことがある。森岡はどこにいても、常に全力で、誰よりも「自信」に満ち溢れ、人々を魅了するプレーを続けているだろう、ということだ。
森岡薫(もりおか・かおる)
1979年4月7日生まれ、36歳。ペルー出身。名古屋オーシャンズ所属。
日系2世の父とペルー人の母を持つ日系3世としてペルーで幼少期を過ごし、12歳で来日。以降を日本で過ごし、21歳のときにフットサルと出会い、競技にハマっていく。関東の強豪、ブラックショーツ、ファイルフォックスで頭角を現し、06年に日本初のプロクラブ、大洋薬品/BANFF(現名古屋)に移籍。07年のFリーグ初年度に最優秀選手賞を受賞。それ以降も屈強なピヴォとしてリーグで存在感を放ち続け、得点王を4回、ベスト5を5回、MVPを4回と、“国内最高選手”の名をほしいままにした。2012年には帰化申請が承認され日本国籍を取得、満を持して日本代表に選出されると、10月にタイで行われたワールドカップに出場。史上初のグループリーグ突破、ベスト16に大きく貢献した。16年1月、名古屋のリーグ9連覇を決めた2日後、今季限りでクラブから退団することが発表された。
本田好伸(ほんだ・よしのぶ)
1984年10月31日生まれ、山梨県出身。 日本ジャーナリスト専門学校卒業後、編集プロダクション、フットサル専門誌を経て、2011年からフリーランスに転身。エディター兼ライター、カメラマンとしてフットサル、サッカーを中心に活動する。某先輩ライターから授かった“チャラ・ライター”の通り名を返上し、“書けるイクメン”を目指して日々誠実に精進を重ねる。著書に「30分で勝てるフットサルチームを作ってください」(ガイドワークス)