大学でフットサルを始め、一気にトップまで登り詰めた。スペインの1部リーグや、日本代表として3度のワールドカップにも出場した。そんな高橋健介が今もなお変わらずに持ち続けているもの、それは小さい頃から思い描いてきた指導者になるという夢。彼を突き動かしてきた探究心や向上心こそ、自身のルーツだった――。
text and photo by Yoshinobu HONDA
文=本田好伸「先生になることが夢だった」。小学校3年生でサッカーを始めた高橋健介は、幼心に指導者への憧れを募らせていく。普通であれば、真っ先にプロ選手を目指しそうだが、教員免許を取得して先生となり、指導者になるという道を、漠然とではあるが自然に思い描いていた。
その思いは、中学高校を経て確固たる目標に変わっていった。「中学時代のサッカー部の顧問は人間的に尊敬できる方で、『こういう先生になりたい』と思えた。高校ではサッカーの指導がすごくうまい先生と出会えて、指導者への思いが段階的に膨らんでいった」。そして、先生になるために大学進学を考えていたが、地元ではなく、順天堂大学への進学を選んだ。そこには、中学時代の恩師が、高校受験を前に母親に伝えた言葉が影響していた。
母親は、サッカーの強豪である旭川実業高校ではなく進学校を希望していたが、「子どもがつまずいた時にどう責任を取るのかを考えることが大切で、進路は子ども自身に選ばせる方がいい」と。自分で選んだ道で失敗しても立ち上がれるが、親や周囲が決めた道で失敗すると人のせいにしてしまうかもしれないという意味だった。高橋はそのエピソードを高校卒業前に聞いたというが、後のスペイン挑戦の際にも、「自分で思った道に挑戦したい」と、その言葉が大きく作用していた。
大学3年生の時にフットサルと出会い、教員試験の勉強のためにサッカー部を辞め、仲間とフットサルのサークルを立ち上げた。現在、大学フットサル界で名を馳せる、順天堂大学ガジルというチームだ。「実はスノーボード同好会だったことは知られていないと思う。トレーニングっていう名目で体育館を借りてフットサルをしていた」のが真相だが、高橋はサークルと並行して、関東の強豪、プレデター(現バルドラール浦安)の練習にも参加していた。経験したことのないフットサルの戦術やトレーニング、レベルの高い先輩たちに刺激され、学んだことを復習し、ガジルの仲間に伝えながらトレーニングすることで、自分の中でフットサルのいろはを整理していった。
週に数回のプレデターの練習には、下宿先の千葉県佐倉市から約2時間掛けて通っていた。帰宅は毎回、深夜12時を回っていた。ノートに熱心にメモを取り、往復時間を利用して予習と復習を繰り返し、そんな生活を4年生の終わりまで続けた。同時期には、地元の旭川に帰省すると、仲間が立ち上げた、ディベルティードS.S.Pというチームでフットサルの全国大会、全日本選手権大会に出場していた。プレデター、ガジル、ディベルティード、勉強というハードスケジュールをこなせていたのは、「物事を理論的に整理できないともどかしくなる」という性格的な部分が大きかった。
晴れて教員免許を取得し、卒業前に赴任先も決まった。都内の養護学校だった。しかしその時、高橋は日本代表選手として成長著しい時期でもあり、5月から始まるアジア選手権に向けた代表活動で、いきなり休暇を取る可能性があった。「校長先生に直訴したが、どちらかを選んでくれと、即答でダメだった。新人研修もあり、公立の養護学校なのでそれは当然だった」。フットサルの日本代表選手がいるという対外的なアピールも必要なく、教諭がいなくなるデメリットの方が大きいために、予想していた答えでもあった。選択を迫られたが、「今しかできないことはどちらか」を考え、フットサル選手としての道を決断した。
それから高橋は、日本代表選手として大きくステップアップしワールドカップの舞台にも立ち、08年から3年間は欧州最高峰のスペイン1部リーグでもプレーした。ワールドカップではケガに泣き、スペインでは言葉や生活に苦慮しながらも、飛躍し続けた。そして現在は浦安に復帰し、Fリーグでプレーする傍ら、「RAD FUTSAL PROJECT」という、全国各地でのクリニックやイベント、スクール、社会貢献などを通じたフットサル普及活動を始めている。
「一つは、すでにフットサルをされている方にもっとフットサルを好きになってもらい、その人たちがFリーグにも足を運んでくれるようにすること。もう一つはフットサルを知らない、知っていても見たことがない人に、その魅力を伝えるために立ち上げた。それで各選手の考えなどをみんなで共有していこうと、周囲の選手にも声を掛けた」。少年団のチームを無償で巡る活動もしている。「環境的には完全なプロ選手ではなくても、現役トップ選手のうまさやすごみを見せることができると思うし、子どもたちが大きくなっても覚えているような言葉を伝えることもできると思う。それは現役選手の特権であり、使命だとも思っている」。プレーだけで生計が立つ“完全なるプロ選手”が数少ない中で、フットサル選手として生活ができ、それでいて子どもたちの憧れの存在になれることは、フットサル選手が目指すべき姿の一つだ。「お金を払って試合を見に来てくれるお客さんがいる以上、ピッチに立てばプロ選手」であることは前提だが、ピッチから離れたところで何ができるかということを、高橋は率先して示している。
今は先生ではないが、そもそも教員を目指した理由は指導者になるためだった。その意味で、高橋の夢は幼少期から貫かれている。「32歳という年齢になり、監督や指導者の目線も強くなっている。人を育てることにずっと興味を持っていたし、指導者になる勉強は、それ自体が選手としての成長にもなる」。まだ現役を退く時期ではないが、指導者になる夢はブレずに、日増しに膨らんでいる。
高橋のルーツを辿ると、フットサルとの出会いが転機となったことは間違いないが、それ以上に彼を突き動かしてきたものとは何だろうか。高橋は言う。「AB型の長男、それがルーツかもしれない。納得できないことは、それが一直線につながるまで考えないと嫌だし、物事を冷静に、俯瞰的に見ることもそうだと思う」。熱い気持ちを持つ一方で冷静沈着、かつ理論的に物事を解決していく、高橋らしい答えだ。それはまさに“先生”には欠かせないスキルに違いないだろう。
高橋健介(たかはし・けんすけ)
1982年5月8日生まれ、北海道旭川市出身。バルドラール浦安所属。
旭川実業高校で全国大会出場。卒業後、順天堂大学に進学。大学3年時にフットサルと出会い、サークルとして順天堂大学ガジルを立ち上げる。並行してプレデター(現バルドラール浦安)に練習参加し急激な成長を遂げると、04年には日本代表に選ばれワールドカップ出場を果たした。07年のFリーグ発足初年度は浦安でプレーし、08年にスペインリーグ1部の強豪カハ・セゴビアへ移籍。スペイン3年目には、中心選手としてグアダラハラでプレーした。11年に帰国し、現在も古巣の浦安でプレーを続ける。味方を生かすフリーランニングや、相手を一瞬で置き去りにするトラップなど、高い個人戦術のスキルを持つ。
本田好伸(ほんだ・よしのぶ)
1984年10月31日生まれ、山梨県出身。
日本ジャーナリスト専門学校卒業後、編集プロダクション、フットサル専門誌を経て、2011年からフリーランスに転身。エディター兼ライター、カメラマンとしてフットサル、サッカーを中心に活動する。某先輩ライターから授かった“チャラ・ライター”の通り名を返上し、“書けるイクメン”を目指して日々誠実に精進を重ねる。著書に「30分で勝てるフットサルチームを作ってください」(ガイドワークス)
本田好伸(ほんだ・よしのぶ)
1984年10月31日生まれ、山梨県出身。 日本ジャーナリスト専門学校卒業後、編集プロダクション、フットサル専門誌を経て、2011年からフリーランスに転身。エディター兼ライター、カメラマンとしてフットサル、サッカーを中心に活動する。某先輩ライターから授かった“チャラ・ライター”の通り名を返上し、“書けるイクメン”を目指して日々誠実に精進を重ねる。著書に「30分で勝てるフットサルチームを作ってください」(ガイドワークス)